横井久美子 東京新聞「本音のコラム」 1999年6月15日
歌うということ

 歌を、強制されて歌いたくないなぁと、歌うことが好きで人生の大半を歌とともにすごしてきた私はそう思う。
 あっという間に「君が代」を国家に定める法案が、国会に提出された。会期を大幅延長して今国会で成立をめざすらしい。
 国歌があるのはいい。でもそれがなぜ「君が代」なのか。
 歌うことは素敵だ。歌うことで人は、慰められ、励まされ、解放される。私たちは、歌の歌詞に自分を重ね、たった三分のドラマの中で、自分を確認したり、別な人間になったりする。だから私たちは、楽しいとき、悲しい時、一人ぼっちの時、みんなといる時、歌を歌う。
 でも、いつの場合も、歌う歌わないは多分にその時の気分や好みに左右されている。
 歌うという行為は、そういうもっとも個人の自由に選択できる領域に属している分野なのだ。歌詞に自分が重ねられなかったり、メロディに乗れなったりすれば、私たちは歌いたくない。
 さらに言えば、声を出す器官である声帯という筋肉は、心身共にリラックスしている時こそ、いい声がでる。声を出すということは、肉体の機能としてかなり積極的な作業でもあるのだ。
 「君が代」が国歌として法制化され、強制されるようになったらどうなるだろう。歌わなかったら罰を与えるという世の中になるなんて危険な国ではないか。
 そもそも1868年の明治維新以後130年たつが、あの戦前さえ国歌は法制化されていなかった。なぜそんなに急ぐのか。
 もし広く国民に愛される国歌を選ぶつもりなら、せめて130年の十分の一位の年数をかけて議論したり、国歌を公募したりすればいいと思う。いずれにしても、歌は強制されて歌わせられるものではない。

横井久美子

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