Kumiko Report 11/27/2002
21世紀型事件

昨日、東京の千代田公会堂で「痴漢えん罪事件を考える市民のつどい」があり、いっぱいの人の前で発言し歌った。

私たちの身近ですごく恐ろしいことがおこっている。満員電車のなかで、痴漢にまちがわれ、捏造され、逆恨みされ犯人にされた13人の男たちの訴えに慄然とした。そのうちの一人は、夫が、女子高生に訴えられ、まもなく実刑で刑務所に収監されるその妻の涙ながらの訴えだった。女性の一方的な申し立てだけで、日本の警察と司法がいかにいい加減な調査だけで、疑わしきを罰する権力であるか。5万円払えば不起訴になり、世間に知られることもないのに、彼らは、身に覚えの無いことだと裁判でたたかっている。

私は、2000年2月15日、「市民巻き込む冤罪」というコラムを書き、その直後、警視庁OBなる方から「いい加減なことをいうな。警察が間違えるはずは無い」というA4の4枚の批判文をもらったので、その手紙を集会で紹介した。

私は、この痴漢えん罪事件は、20世紀まで延々と続いてきた古い男性観、女性観と、新しい人間観がぶつかりあう21世紀型事件ではないかと思う。というのは、痴漢えん罪事件を裁く思考の根底には、歴然と「か弱い性としての女性を保護する」という女性差別、女性蔑視がある。警察官も裁判官も、女性はか弱くてセクハラされる対象、男性はいつも、どこでもセクハラしたいと思っている動物、としてしか考えていない。果たして、裁判官や警察官は、そうした過去の画一的な男女観だけで人間を裁いていいのだろうか。男女雇用機会均等法や男女共同参画基本法ができ、女性の社会進出は進み、人々の意識も少しずつ変わってきている。

ディスクロージャー(DISCLOSURE)という映画がある。
マルチメディアの会社の社員マイケル・ダグラスと、上司で副社長、元恋人のデミ・ムーアの物語。マイケル・ダグラスが上司デミ・ムーアに迫られ拒否して、翌日、出社すると、デミ・ムーアがセクハラされたと騒ぎ、裁判になる。いかにもセクハラしそうに見えるマイケル・ダグラスが、事実は、被害者。この映画は1994年、もう8年も前の映画だ。映画は、確実に人々の意識の変化を映像化している。

痴漢えん罪事件は、こうした社会の変わり目で起きているブラックホールのような事件だ。裁判所、警察所での権力システムの問題とあわせて、裁く側の持っている古い女性観、男性観との戦いでもある。人を裁く仕事の人は、時代を深く洞察し、正しい人間観をもって欲しいものだと考えながら、夜道に映えるイチョウを踏みながら帰宅した。

横井久美子

2002年11月27日

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