Kumiko Report 12/26/2002
2002年の歌い納めは廊下!

昨日、25日は、日本中で裁判闘争をしているじん肺の原告、遺族、支援者が丸ビルの裏にある郵船ビル前に集まった。東京駅前の丸ビルは、ブランド品店が入り、今や東京名所になっていて、ものすごい人出。その脇を抜けるとのぼりが立ち、寒い路上で毛布にくるまり原告の方たちが座り込んでいる。九州、北海道など各地からの代表の発言や、松平さんのトランペットが参加者を元気づける。私もマイクを持って発言。

私がじん肺裁判支援をするようになったのは、10年前。被害のむごさと併せて、加害企業である日鉄鉱業の「労働者は使い捨てぞうきん」という非情な態度をこの目で見たからだ。その後、日鉄鉱業は17件も裁判で断罪されているのに、その判決結果を無視し続けているアウトロー企業。じん肺訴訟では、最悪の企業として有名。

社前の集会後、100人近い人たちと、郵船ビルの6階にある日鉄鉱業に行った。廊下で、会社側の担当者と押し問答。会社側は要請人数を20人にという。私たちは、大きな会議室があるので、入いれるだけ入るか、社長が廊下に出てきて、一言謝って欲しいという。その日の長崎地裁判決は、またもや原告側の勝利。でも、日鉄鉱業は、10年一日の対応。この間にたくさんの原告患者が「命あるうちに救済を」と叫びながら死んでいった。患者を立たせたままで、偉そうに立ちふさがりニヤニヤ対応している担当者に、私は、大声で叫んだ。「私たちは、頭を下げてお願いする立場ではないのよ。アンタたちが謝る側なんだよ」

結局、20人しか入れず、残った100人近い人たちは廊下いっぱいに座り込んで要請している人たちを待った。

福岡や札幌からきた遺族のおかあさんが次々と立ち上がり、会社の態度に怒りながら、泣きながら死んだ夫のことをトツトツと話した。支援者の人も話した。島根から来た20歳の女性がみんなに、そして、立ちふさがっている担当者に泣きながら言った。「じん肺の映画を観て参加したけれど、あなたたちの態度はあまりにもひどい」。私も訴えの合間に司会をしながら歌った。「夫へのバラード」「ノーモアスモンの歌」「おいで一緒に」「なくせじん肺」など。台湾の女性が上手な日本語で言った。「3月に死んだ父さんがじん肺だということを日本にきて知った。横井さんの歌のとおりに苦しんで死んだ」。原告患者の男性はいう。「そういう話や歌は自分の行く末を言われているようで聞くのが辛い」。

首都東京のクリスマスに浮かれている街の午後。隣の丸ビルでは、不景気どこ吹く風と高級ブランドを買い求める客であふれている。
そんな洒落た界隈の、あるビルの廊下で、この日本の繁栄の犠牲になって死んでいった人々のことが語られている。これからひどくなるじん肺による死の恐怖が語られている。そして、ニヤニヤしながら偉そうに見下している会社の担当者たちの姿。これが、私たちの日本という国の2002年のクリスマスの暮の風景。

でも、私は、満足だった。10年前に比べ映画もでき、運動は確実に広がっている。裁判でも勝利和解がすすんでいる。日鉄鉱業以外の他の加害企業も和解に応じている。そして、何よりその日私にとって満足だったのは、「歌」が、その場に自然に溶け込み、苦しみ、立ち上がり、戦っている人たちの力になったこと。その場面に参加できたこと。たとえ廊下であろうと、いや廊下だからこそ、いやいや廊下であるなしに関わらず。
2002年の素晴らしい誇るべき歌い納めだった。

横井久美子
2002年12月26日

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