Kumiko Report 5/2/2003 |
ベトナムとイラクを結ぶ 1975年4月30日、南ベトナムは開放され南北が統一した。それを記念した日本ベトナム友好協会の企画が目をひいたので参加した。 一部は、ベトナム報道で有名なジャーリストの木谷八士さんの「ベトナム無血開放秘話」。今、イラク戦争で、「開放軍」を装った米軍の本質が次々暴露されているが、いかに、南ベトナム解放戦線が、南ベトナム民衆の歓声に迎えられたかを、活気ある声で話された。特に、長年にわたって忍耐強く南ベトナム傀儡政権中枢にもぐりこんていた人たちがいて、開放当時、国が混乱しないためにその人たちが力を発揮したお話は新鮮だった。 ベトナム開放当時大混乱したのは、サイゴンにあったアメリカ大使館だけだった。この場面は有名で、以前、ニューヨークで観たミュージカル「ミス・サイゴン」にも、大使館に着いたヘリコプターに、傀儡政権と結びついた人々が脱出するため殺到する場面があった。 続いて二部は、イラクから帰られたばかりの写真家の森住卓さんの写真とお話。つぎつぎと映し出される写真。森住さんは「『僕の写真を見るときは勇気を出して見てね』といっています」と言われたが、勇気がないと、目をそむけたくなる写真に、「ナンデ、ナンデ、ナンデこんなむごい事を!」と、涙が溢れる。写真家の石川文洋さんが「戦争を阻止するには、戦争の実態を知ることだ」といわれたことを思い出す。 参加してとてもよかったことは、ずっと疑問に思っていたことが解けたことだ。イラクでの「略奪」を、森住さんは「アメリカ軍のやらせ」と言われた。アメリカ軍は、バクダットに侵攻すると「バクダット中央刑務所」の囚人を出し、略奪を命令した。 その目的は、イラク人には統治能力がないことを世界にアピールし、イラク人自身にも、アメリカ軍がいなければとてもイラク人だけでは統治できないと思わせるためだったという。 更に、バスラ侵攻時の民衆の歓迎場面は、クウェートからアラブの外国人労働者を連れてきてのやらせ。バクダットのサダム像引き倒しの場面は、世界中のジャーナリストが集まる「パレスチナホテル」前。引き倒したのはアメリカの戦車。アメリカの「情報戦」は、世界にアピールし、やはり効を奏している。特に、アメリカ追随の日本では。 最後に、私も急に挨拶をといわれ、「2月に枯葉剤被害の子どもたちの前で歌って涙が止まりませんでした。ベトナム反戦世代として、再度ベトナムと向き合うことが、イラク戦争反対につながることにもなると思って、来年3月には、「友好村」の枯葉剤被害の子どもたちとハノイでコンサートをします」と話した。 イラク戦争反対の行動をするなかで、イラクは第二のベトナム。たとえ戦争が終わっても300万人も枯葉剤被害者がいるというベトナムと同じように何十年にもわたって、イラクの人々を苦しませ続けると思って反対してきた。30年前、私たちは、ベトナム戦争を通じて世界を知り、日本を考え、「正義」を学んだ。しかし、イラク戦争を考えるとき、ベトナム戦争は、化学兵器による戦争被害の原点でもある。 ベトナムから「正義」を学んだ私たちは、再度、ベトナムと向き合い、「戦争の実態」を知り、この地球から戦争をなくす大きな力にしていきたい。来年3月には、ご一緒にベトナムにいきましょう。 横井久美子 2003年5月2日 |
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