Kumiko Report 5/19/2003
H・Tさんのメール

多分、昨日の私のレポートを見て、以下のようなメールがH・Tさんから届きました。
彼女は、私たちの集会と同時刻行われていた「憲法フェスティバル」に参加し、辺見庸さんの講演のまとめを送ってくれました。講演をまとめるのは、難しいことなのにスゴイ理解力、整理力。本人の了解を得て掲載します。
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横井さん、以下、辺見さんの講演をまとめてみましたのでお送りします。

「 今日は憲法フェスティバルだそうだが、むしろ憲法の葬式といったほうがいいのではないか。日本の反動は円熟期、完成期を迎えたといってもいい。90年代からの異様な動き、流れをくいとめたいと、話し書いてきたが、すべてはついえた。秋でもないのに、地虫の鳴き声のようなか細い反対の声しか聞こえてこない」

「 武力攻撃事態法の22条にある社会秩序云々は、言論、スト、運動、娯楽などの禁止を言っている。すでに動員と統制の時代に入った。日本のグラウンドゼロと言える。 闘わずして大敗北した。これは安楽死だ。 世界の惨澹たる風景は、一人ひとりの風景の総和だ。 我々はカエルだ。だんだん熱くなってくるお湯をいい湯加減と思っていて、死ぬまで 気づかない」

「 ハンス・エンツェルベルグというドイツの詩人が「資本主義は、資本の蓄積の次は、 意識の収奪を始める」と言っている。我々は支配に同意をあたえているのだ。収奪の機関はマスメディアだ。メディアに携わるものも又、収奪されている。アフガンで何人が殺されたか、死体の恨みの声は‥‥何も報道されていない。何かおかしいという時、先兵にマスメディアがいる」

「 ポール・サミュエルソンという経済学者が、「個々の合理的判断は全体と一致しない。 部分最適は全体の最適にならない。合成の誤謬」ということを言っている。有事三法案が特別委員会を通過した14日、本会議を通過した15日、号外は出たか。 サッカーのワールドカップでは出たのに。 その日のトップニュースは、白装束の集団の一斉捜索、その罪名は公正証書原本不実 記録だという。事の軽重をひっくり返す詐術だ。 アフガン、イラクの現実を伝えないメディアは、根源の疑問を発したか。その疑問に 答えたか」

「 有事と言うが、誰が攻めてくるというのか。 我々は北朝鮮について多角的な情報を与えられているか。金正日の映像、軍隊の行進、 踊り子たちばかり。 有事三法案は、治安維持法的性格を持っている。朝日新聞は16日社説で、これを使わないですむようにしようと、必要悪として追認している」

「日本版ネオコンともいうべき人たちがいる。民族差別発言、改憲論者の阿倍晋三、徴 兵制に言及する石破茂、赤木や米田。みな拉致議連でつながっている。有事三法案は、下位法であるのに、最高法規である憲法を扼殺している。合法的クー デターとも言える。マスメディアはそれを伝えるどころか、押し上げた」

「在日朝鮮人は、あからさまな嫌がらせを受けていて、そのひどい例は枚挙にいとまが ない。そこにメディアは何をしたか。まっとうな議論をしていない。 北海道の西本願寺別院からたくさんの骨が見つかった。それは強制連行されて炭鉱で働かされたあげく死んだ、在日コリアンの骨だ。日本と言う国がどういう国か、いい学習材料だが、学習しようとはしない。長崎の原爆資料館で丸木夫妻の描いた「カラス」という絵に出会った。何度も行っているが、先日その絵に目がとまった。たくさんのカラスの間に白いチマとチョゴリが見える。原爆が落ちた後、日本人の死体から片付けられ、朝鮮人の死体は放置されている。その死体に群がるカラス、そのカラスの末裔が今も日本の空を飛んでいる」

「子どもたちの愛国心を評価される時代になった。首相が売国奴なのに、子どもたちに 愛国心をせまるとは‥‥。これまで、愛国心というと、右翼的な発言と、冷笑してき たが、そのツケがまわってきたのかもしれない。 今、強制連行について語る勇気もないマスメディア」

「その名前を口にするのも嫌だが、三浦朱門という人が教育基本法の「改悪」について 「非才・無才はせめて実直な精神を‥‥」という発言をしている。「拉致と強制連行 の決定的違い」ということについても発言していて、「そもそも強制連行があったこ とを疑っている」という。「当時、台湾・朝鮮にいたのは日本人だから、徴用令に従 わなければならなかった」などと」

「金子光晴という詩人が「この国は、幸せになるどころか、自分の不幸さえ見失った」「奴隷というものには、ちょっと気の知れない心理がある。自分はたえず空腹でいて、 主人の豪華な献立の自慢をする」と言っている。 戦後、一番学習してきたのは、反動思想家かもしれない」

「この間の反戦運動は、いくぶんか盛り上がりをみせたが、あのデモというかパレード には違和感を感じた。いつも「イマジン」を歌い、交通法規を守る従順な羊であることを見せる、ことさら非暴力を訴える、甘い甘い運動である。大学で講師をしているが、その大学に護憲論者はたくさんいても、そのキャンパスに は深い悲しみも怒りもない。学生運動を反社会的行動として、ビラを配ったり、署名 を求めたりする活動に気をつけるようにとの看板が出ていた。石破が来てアジ演説をしていったが、何も起こらない」

「金子光晴は反戦詩人と言われているが、「たたかわねばならない、必然のために。 勝たねばならない、信念のために。一そよぎの幸せも動員されねばならぬ」という 戦争翼賛の詩も書いている。 思想も文化も運動も、グランドゼロの地点にいる。廃虚から立ち上がって、紡いでい かねばならない。せめて一人分の風景に責任を持ちたい。色んな知恵をふりしぼって 阻止したい。 国家暴力が人間に優先されて大手をふるう時代。国家の暴虐に抗う言葉が日本にはな い。中国語にはある、「抗暴」。これを新著のタイトルに使った。 自分の原寸大から、めげずに考える、語る。 自分の生活圏から有事法制につながるすべてを拒否する」

と、ざっと上のような話でした。 頭をガッツーンと殴られたように感じ、そしてその通りだと思いました。 近くの席の人が「ちょっと過激だったけど、あれくらい言わないとねえ」と、 何だか他人事のような感想を言っていました。 集会の終わりに司会のお姉さんが「みなさん、今日はお楽しみいただけたでしょうか。 来年も、みなさんの笑顔にお会いできるといいですねえ」と締めくくったのには、 「はあ?あなた、辺見さんの講演を聞いたの?」と思ってしまいました。 そしてその後、「ゆるゆる、ふっくり‥‥」と自分に言い聞かせました。 長い闘いになると思います。H・Tより
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いつもの辺見語録に私もガーンと打たれましたが、特に、「その大学に護憲論者はたくさんいても、そのキャンパスには深い悲しみも怒りもない」という言葉に悲しいけど納得。また、司会者の「お楽しみいただけたでしょうか」にも、会場の他人事のような感想にも、、、。というのは、私たちの集会でも、同じような場面があって怒っていたからだ。

昨日は、真面目に平和運動をしている人たち(私も含め)に悪いかなと思って書かなかったのですが、喜納さんは「人々は死んだ平和運動より、生きた戦争を好む性向がある」とも言ったのです。そこまで言わないでもと思いながら、「死んだ平和運動」つまりスケジュール消化、自己証明のためのような「平和運動」にならないためには、まず、「自分の原寸大から、めげずに考える(辺見)」「怒りがなくては平和にならない(喜納)」という言葉を、自分への自戒も込めて大切にしたい。私流に言えば「すべては一人の怒りからはじまる」。

横井久美子
2003年5月19日

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