Kumiko Report 12/29/2003
今年最後のライブ

12月27日午後4時半から、今年最後のライブがありました。
JR阿佐ヶ谷駅のからすぐのShot Barは、年末にも、急な企画にもかかわらず満席。昔からの友人中沢陽子さんが、今後、地域で仲間が集う場をつくりたいと文化サロン「欅」を立ち上げ、その発会式でもありました。Shot Barでのコンサートは初めてで、最初は戸惑いましたが、いいのか悪いのか、普段のペースのコンサートになりました。この日は、ゲストにヨーロッパなどで写真を撮られている前沢淑子さんを迎えし、お話を伺いました。光と影が鮮やかな美しい写真を撮られている彼女は、翌日、スイスに撮影の旅に出られました。


その夜のコンサートで、私は、4日前、12月23日に90歳で亡くなった名古屋の母のことを初めて話しました。
21日は、ふるさと名古屋で春秋楽座があり、母の病院へ寄る時間が取れず帰宅し、23日の早朝、母の容態が急変し、死亡の知らせを受けました。そのまま名古屋へ駆けつけ、自宅に戻った母の顔を見て東京へ帰り、また、25日お通夜、26日葬儀で名古屋に行きました。

母の死は、27日に最後のライブがあったので、私は誰にも話しませんでした。私たちの仕事は、人に夢を、生きる喜びを感じてもらう仕事で、そのためには、まず、自分が打ちしおれていては、力がでず、ライブに臨めません。周りがそれを知って慰められていると余計、悲しくて気弱になるものです。たとえ極度に悲しく疲れていてもライブの出来不出来は関係なく、自分を奮い立たせるためにも、誰にも知られないほうがいいのです。

3年程前、大阪でステージの仕事があった2日前、過労で天地がひっくり返るメニエル氏病に似ためまいが起こり、病院で点滴を打ってもよくならず、大阪まで夫がついていくか、息子がついていくかということがありました。結局私は、誰の随行も断って、主催者にも話さず、ステージを無事終わったことがありました。私はその時、大げさかもしれませんがステージで死ぬかもしれないと覚悟を決めていました。私に限らず、私たちの仕事は、たとえ数十人の小さなライブでも、そういう覚悟のいる仕事です。
でも、その苦しい経験から、私は、その後、ジムに行って体を鍛えたり、自分で生活をコントロールするようになりました。

阪神の星野監督が、母の死をチームメイトに知らせなかったということを知った時、私は、国民注視の阪神の監督と私では、雲泥の差があっても、リーグ優勝を前にした監督の気持ちがよく分かりました。

ただ、私の母の葬儀の際には、地元のファンの方から話しが伝わり、輝き隊や個人の方からのお花が出ていました。また、何人かの方が会葬においでいただきました。年末のお忙しい中、本当にありがとうございました。

母の死を聞いた時、もう少し生きられると思っていましたので、しばらく呆然としました。私の仕事をずっと応援してくれた、大好きな母でした。でも、あまり苦しまず、寝たきりにもならず、十分精一杯生きて大往生でした。ただ、来年1月18日に出版される本「歌って愛して」に母のことを書き、その文章を母に読んで聞かせようと思っていましたので、それが出来なくなってとても残念です。でも、そういう文章を書いたことで母を送ることができたのがせめてもの幸いだったと思います。

これから年末年始は、ライブもないので、ゆっくり母を偲びたいと思います。

横井久美子
2003年12月29日

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