Kumiko Report 2/16/2004
函館〜名古屋〜東京

2月11日、函館市民会館大会議室での「紀元節復活反対、2・11を考える函館市民集会」。
超党派で38回も続いているこの集会は、各政党代表が挨拶をしたあと、私は、「函館から日本へ世界へ平和を歌って35年」というタイトルで1時間ほど歌い語りました。
35年前、芸能界をやめ、函館労音に声をかけられ、一人ギターを持って歌い始めました。初期の数年間は、函館の職場や地域でよく演奏をしたので、その頃の人たちがたくさん駆けつけてくれました。私が、「この海を渡れば、歌うことと、生きることが一つになるという希望があった」と語ると、何人もの人が涙ぐんでいました。当日は、政府がイラク派兵を決めたこともあり、普段の集会の2倍以上の200名近くの人々が。

「こういう集会で写真入りで全道版に載ることは少ないです」と、主催者から送られてきた新聞には、「建国記念日の日 この国の行方問う〜函館市内で開かれた集会で横井久美子さんに合わせて一緒に歌う参加者」(北海道新聞全道版)
「平和の大切さ歌に込め訴え〜函館 横井さん招き集会」(北海道新聞地域版)
「平和の尊さ、歌で市民で訴える〜歌を交え愛と平和について講演した横井久美子さん」(毎日新聞)

自分のデビューの地函館を、35周年記念コンサートをしている今年訪れることができたことがとても嬉しい。いわゆるコンサートホールでの演奏ではなかったけれど、本当にたくさんの当時の方々が私を忘れず足を運んでくれた。しみじみ私は幸せな歌手だと思い、そして、函館で育てられた私の35年のこの今の世界を見て!聞いて!という感謝の気持ちでいっぱいでした。一面真っ白の風景のなか、何人もの方が空港まで送ってくれて、飛行機で函館を後にしました。

2月13日は、生まれ故郷の名古屋で行われた「春秋楽座」。主催はコスモスさざんか30人組。コスモス保育園の遊戯室では、現役の若いお父さんお母さんが私の前にいっぱい。「自転車の乗って」は、ワンフレーズごとに大きな声で反応があり、お父さんまでハンカチを出して笑いながら泣いていました。また、学生時代、「なみちゃん」を聞いて自分の娘にその名前をつけたという方が二人もその場にいました。

組長の男性は、39歳。大学時代に私の歌を聞いて「10年を歌う」のテープを擦り切れるほど聴いていて、だから、私の歌については「10年を歌う」で止まっていたということです。そういう人が多かったせいか、「VIVA KUMIKO」をはじめ本なども完売。「横井さんのファンは僕の周りに、まだまだいっぱいいますよ」といわれ、11月13日の名古屋コンサートも勇気百倍。

また、偶然、昔一緒にギターを弾いてもらっていた加藤章さんがその保育園と関係があってゲストで2曲演奏。「僕は19歳の時、横井さんに会ってそれからこの道に入って、、」といわれて、嬉しいやら責任を感じるやら、、、。

22時10分の最終新幹線に乗る予定が、アンコールしたりサインをしたりで4分前に名古屋駅の正面玄関着。それから新幹線ホーム迄、走りました、走りました。結構距離があるのですよ、ホームまで。心臓が破裂して倒れるかと思うほど、喉がひーひー言うほど走って間に合いました。でも、もう二度とこういう事態に陥りたくないと心に誓いました。



15日は「ありがとうふきさんの会」。櫛田さんが亡くなられて3年です。早乙女勝元さんをゲストのに迎えいつもの西荻窪のこけし屋には、函館、長野、静岡、山形などからも駆けつけた方々が。国会議員の緒方靖夫さんも。ちょうど手術のため来日していたベトナム平和村のガーちゃんも顔を見せてくれました。作家の渡辺一枝さんも着物姿で。
戦争を体験された早乙女さんのお話は、本当に素晴らしく、ひしひしと軍国化してゆく日本の危険を警告され、また、どんなに無関心な人々が多いと感じてもゼロではないと、一人いれば必ず二人に、二人いれば三人に四人になるといわれていたのが強く心に残りました。

2月前半は、南へ北へと駆け回り、事務的な仕事や精神的負担のかかる出来事があり、疾風怒涛の日々でした。2月後半は、少しゆっくりできるので、体調を整え、じっくり考え、「ゆるゆるふっくり」過ごしましょう。

横井久美子
2004年2月16日




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