Kumiko Report 9/22/2004 |
原町子さんご機嫌よう! 18日、私たちが東京の津田ホールで「ファイナルコンサート成功させる集い」をしている日、原町子さんが62歳で乳がんで亡くなられました。 原さんとは、2000年のアイルランドツアーからのお付き合いで身近なのですが、保育士として園長として子どもをこよなく愛した原さんは、その飄々とした可笑し味のある語り口で周りを幸せな気分にさせた方でした。 実は原さんは、「久美子と輝き隊」の名つけ親なのです。3年前、記念コンサートを企画するとき、実行委員会というのはありきたりよね、もっと素敵な名前はないかしらと原さんが「久美子と輝き隊」を発案されました。余談ですが、私は、恥ずかしいから「久美子」をとって「輝き隊」だけではどうかしらといったのですが、「ダメ!、みんな久美子さんとともに輝いてコンサートを成功させたいとおもっているのだから」と却下。 原さんは輝き隊主催で「輝き塾」をし、塾長として采配を振るい、2002年12月7日の「ゆるゆるふっくり」の出版パーティには、名司会をしていただきました。また昨年の6月まで、月に一度の事務所会議には、川崎から国立まで来て下さって、長年、園長として培っていらした立場からの貴重な発言をいただきました。10年前の乳がんの再発が発見され、闘病生活をされながらも、記念コンサートのことを心配され、今年の1月の100曲コンサートにも参加されました。11月21日のコンサートチケットも予約されていました。 20日に葬儀が行われ参加しました。たくさんの方の悲しみの中、最初にご主人が挨拶され、病気の経過、その中でも、友人との会話や手紙を楽しんでいたことを話され、最後に、ここ数年は横井久美子さんのコンサートを成功させることを楽しみに活動していました、と報告があり、溢れる涙が止まりませんでした。 その後、保育園活動を共にした同僚、後輩の方々から原さんの業績がしのばれる暖かいお別れの挨拶のあと、私も泣きながら感謝をこめてお別れの言葉をのべ、「花が好き」を歌いました。 葬儀の後、原さんが誘って下さった川崎の「輝き隊」の方々から声をかけられました。「原さんにとって横井さんのコンサートを成功させることが生きる力になっていたのよ」「原さんは、葬儀のやり方からすべてきちんと片付けていったから、きっと11月21日のコンサートを見られないことだけが心残りだったでしょう」「原さんの写真を持って出かけるわ」といわれました。 そんな原さんの気持ちを無駄にすることなく、11月21日は、原さんの写真の前で素晴らしいコンサートにしたいと思いました。 原さんは、言葉の綺麗な人で、いつも「ご機嫌よう」といってお別れしました。「御機嫌よう」と言うとあの原さんの明るい優しい声が聞こえてくるようです。 横井久美子 2004年9月22日 |
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