Kumiko Report 10/2/2004 |
「里の秋」考 「声をあげよう女の会」のフィナーレに、全員合唱で「里の秋」を歌いました。その後、参加者の一人の方から、1941年に戦意高揚のためにつくられ、その後歌詞が変えられた歌を「全員の唱和を求めて歌うのが適切かどうか」というメールをいただきました。その方には私の考えを伝え、その後、「誠実なご返答」というご返事をいただきました。 「里の秋」は、コンサートでも良く歌ってきましたので、これを機に少しまとめてみました。 「里の秋」は、斎藤信夫(さいとうのぶお)の作詞、海沼實(かいぬまみのる)作曲で、1945年12月24日、1時45分NHKラジオ「外地引き上げ同胞激励の午后」で童謡歌手川田正子によってはじめて歌われました。 「川田正子が歌い終えたとき、スタジオ内がシーンと静まりかえった。そしてスタッフの誰もが一瞬、心が浄化されるのを感じた。次の一瞬、我にかえるとデスクの電話という電話がけたたましく鳴りだした。さっき放送された歌についての問い合わせがNHKに殺到したのである。」(http://www.aba.ne.jp/~takaichi/) しかし、この「里の秋」には、基になった詩がありました。同じ詩人斎藤信夫が1941年12月21日に書いた「星月夜」です。1番、2番は同じ歌詞ですが、3番は、「きれいなきれいな椰子の島/しっかり護ってくださいと/ああ父さんのご武運を/今夜もひとりで祈ります」。4番は、「大きく大きくなったなら/兵隊さんだようれしいな/ねえ母さんよ僕だって/かならずお国を護ります」 斎藤信夫は、千葉県の成東町に住み、船橋市の小学校の教師をしながら詩作をし、童謡雑誌に投稿していました。 「この歌が生まれたのは実は4年前、大東亜戦争が勃発した日のことでした。〜軍隊行進曲の勇壮な調べにのって『帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』という臨時ニュースが電撃のように流れた日から、斉藤は『異常な興奮』に『身体全体を』を包まれ『その時の思いを一気に作詞』したのです」 http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/3000Lied-Foto/010030Lied.htm 斎藤はこの「月星夜」を、まだ無名で童謡の新曲を投稿していた作曲家海沼實に送りますが、返事のないまま時が過ぎ、終戦になりました。 「斎藤はこの時期激しく悩んでいた。彼は戦時中、日本の軍国主義を素直に信じ、授業でも子供たちに神州不滅と教えていた。だがその神州が敗れ去った以上、自分は大勢の子供たちに嘘をついてきたことになる。とうとう彼は教壇に立つことに耐えられなくなり、教師をやめてしまう。」http://www.aba.ne.jp/~takaichi/douyou/satonoaki.html 家でブラブラしていた斎藤に海沼實から「スグオイデコウ」という電報が届きました。彼はそこで忘れていた「月星夜」を見せられ、復員兵を迎える歌詞にして欲しいと頼まれました。斎藤は、1945年12月24日、番組開始直前に3番の新しい歌詞をもってNHKに駆けつけました。こうして、南方からの引き上げ第一船が浦賀港に入港した時、復員兵を励ます名作「里の秋」が誕生したのです。 このように「里の秋」には、その元詩は戦争童謡と言われた「月星夜」でした。しかし、「月星夜」は詩のみで、「里の秋」として、初めてメロディが付けて歌われ、公表された歌なのです。歌は、詩と曲があって初めて成り立ちます。私は、この「里の秋」の詞の変更に関し、海沼がどれくらい強く関わったのかは、正確には分かりません。しかし、私も曲を作る立場から考えると、歌は、詩のイメージがあってメロディができるのです。多分、敗戦という時代の要請があったとしても、海沼のあの優しいメロディは、「月星夜」の3番、4番からは生まれなかったのではないでしょうか。 「里の秋」を通して私たちは、戦争開始の世の中の高揚した雰囲気を体験し、また、敗戦を体験することによって揺れ動いた真摯な一人の詩人の姿を知ることができます。 今、私たちは、ちょうど、斎藤信夫や海沼實が生きた60年前の日本の状況と同じような時代に生きています。イラク戦争、自衛隊派兵、憲法改悪と戦争への道を突き進んでいく時代に。私が芸術家として「里の秋」から学ぶことは、斎藤信夫が臨時ニュースを聞いて高揚し、その後、教壇を去ったように、いつの間にか時代の雰囲気に飲み込まれないことです。そんな芸術家としての自分を問う問題として「里の秋」は、美しく私に迫ってきます。 この「里の秋」を考えるなかで見つけた素晴らしい文章をご紹介します。 「『さよなら さよなら 椰子の島/お船に揺られて帰られる/ああ父さんよ ご無事でと/今夜も母さんと祈ります』。この修正された3番の歌詞ほどさまざまな思いを重層して内在させた「さよなら」を私は知りません。それは、きれいな椰子の島へのさよならだけでなく、ともに暮らした島の人々への、亡くなった戦友への、忌まわしい戦場の記憶への、厳しかった軍律の日々への、近代日本がたどった悲痛な宿命への、そして大東亜共栄圏という虚妄に終わった概念への「さようなら」でもあったのだと思えます。『里の秋』は、近代日本の礎となった二百万英霊の御魂と時代に、さよならと告げたのです。それは同時に、大東亜戦争勃発と同時に生まれながら世に出ることの無かった『月星夜』の三番,四番の『椰子の島を護れなかった父さん』と『お国を護れなかった僕』の存在を否定する隠された『さよなら』でもありました」http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/3000Lied-Foto/010030Lied.htm 私の大好きな曲「蛙の笛」も斎藤信夫、海沼實コンビの作品です。 横井久美子 2004年10月2日 |
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