Kumiko Report 1/7/2005
睡眠読書三昧

アメリカへの入国、出国は厳しかった。ニューヨークで入国の際は、人差し指で両手とも指紋をとり、写真も撮られました。私の隣のカウンターでは、中年の女性の英語がはっきりしないらしく「Say Again!」と何回も大きな声で言われ、「誰か英語の分かる人はいませんか?」と並んで待っている日本人に審査官がイライラして叫んでいました。私の列はちっとも進まないと思っていたら、アジア系の男性が、ずっとひかかっていて、ついには出迎えの人まで連れてこられた。空港まで迎えに来ていた娘は、「係りの人が出てきて名前を呼んだ時は、一瞬、お母さんじゃないかとヒヤヒヤした」と言っていました。また、ワシントンで出国の際は、みんな最初から靴を脱いで審査を受けました。でも、これだけしても、何しろいろんな国の人たちが出入国を繰り返す大きな国だから、本気になったテロリストをチェックできるだろうかと思いました。

今回は「記念コンサート」も無事終わったこともあり、また、12月は体調を崩すことが多いので、なんだか自分が不慮の事故で死ぬんではないかという思いに12月は囚われていた。飛行機のチケットは取ったけれど、アメリカに行くのはやめようかなーと思ったり、、、。だからアメリカに行く前には、お礼するべき人にはお礼し、お金を払うべき人には払い、夫にもどこに何があるかを教え、その上、普段はしないのに、空港で保険にも入ったのです。何か起こるという勘は、26日スマトラ沖地震になって起きましたが、、、。

そんな気持ちが強くて、ホスピスを世界中に広めたスイス人の医者であるエリザベス・キューブラー・ロスの「『死ぬ瞬間』と死後の生」、「死ぬ瞬間ー死とその過程について」、「人生は廻る輪のように」を読んだ。また、「文芸春秋」に「理想の死に方」という特集がありふと買って読んだり、、。50人ほどの有名人が「理想の死に方」を書いていて、死ぬときは家族に囲まれとか、美しい音楽を聴いてとか、灰は鳥のさえずる森にとか、完璧な死の準備をとか書いているのだけれど、そのなかで建築家の安藤忠雄さんの「走り続ける」が面白かった。

「死をいかに受け入れるかよりも、生のあり方、生き様をこそ、私は<死に様>と呼びたい」と彼はいう。そして、二人の巨匠と呼ばれる<死に様>を書いている。バルセロナで独自の建築世界を切り開いたアントニオ・ガウディは、大聖堂サグラダ・ファミリアの建設現場からの帰途、市電に轢かれて死んだ。また、20世紀後半の建築界を率いたルイス・カーンは、インドの工事現場を視察したあと、ニューヨークのペンシルバニア駅の便所のなかで死んだ。遺体は、身元不明のまま数日間、市の遺体置き場におかれた。カーンは知らないが、スペインの大聖堂サグラダファミリアには行ったことがありガウディは知っていた。二人とも、生前の業績にふさわしいとはいえない死に方だった。でも彼らは死の直前まで、建築に挑み考え続けていた。だから安藤氏は「彼らがそうであったように、生を振り絞って、走り続けたまま終わりたい」という。

そうなんだよね。どんな死に方をしたいかなんて考えるより、今この一瞬を精一杯どう生きているかなんだよね。多分死ぬ時には、こんなところで死んでと無念かもしれないけれど、死んだあとはもう自分はいないのだから便所で死のうと、電車に轢かれて死のうと世間体はもうどうでもいい。死ぬ瞬間までどう生きていたのかが大切なんだよね。死んだあとまでいい格好する必要なんかないよね。と納得。安藤氏は、今朝の朝日新聞の「新年日本の皆さま」のなかにも登場し、「思考停止脱しよう」「責任ある個人として立ち上がらなくては」と言っていました。

年末年始、寝ては読み、読んでは寝ていて、この他に、山崎豊子「女系家族」、エリス・ピーターズ「修道士カドフェルシリーズ」、池澤夏樹「マシアス・ギリの失脚」など読みました。そして、一昨日読んだ本もよかった。辛淑玉「怒りの方法」(岩波新書)。辛淑玉さんの話は、「松井やよりさんを励ます会」で聞き、その話の面白さ、辛辣さ、批判の鋭さに舌を巻いた。本の各所で共感共感。特に「前書き」を紹介。

「政治家の差別発言に怒って抗議をしに行ったことがある。そのとき、私は、一人でも多くの人を集めようとした。「数」イコール「怒りの大きさ」と考えていたからだ。しかし、私の友人はまったく違う動き方をした」。地方に住むその人は、新聞社に抗議をするため、事前に文書を出し、日時を告げて、証人として東京の友人二人を伴い、新聞社を訪ねた。すると玄関から物々しい警備で迎えられ、「他の方は?」と尋ねられたそうだ。わざわざ地方から抗議に来るのだから、相当の人数だろうと新聞社側は思ったらしい。「3人だけです」というと、相手は、わざわざこれだけ堂々と抗議にくるのだから背後に何か控えているのでは、と恐れを抱いたという。その友人曰く「妥協して集まった集団エネルギーは、大したことないんですよ。むしろそれぞれが、生活のなかで怒りを感じたときに、それをきちんと表現したほうが大きな力になる。ひとりひとりが本気怒ることが大事。それが結集したときには、ものすごいエネルギーになりますから」

「一人ひとりが本気で怒ること」は、私がこのところズッと考えてきたこと。怒りは生きるエネルギーになる。そういえば、最近、「記念コンサート」もあり、怒っていない。2005年は怒りまくろう!

横井久美子
2005年1月7日

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