Kumiko Report 5/11/2005 |
国際平和友好勲章 5月1日、国際代表団は、午前中はベトナム戦争中、アリの巣のように地下に張り巡らし、アメリカ軍を翻弄したベトナムの英知であるクチのトンネルや、戦争遺跡展示場を訪問した。 午後は、記念式典に次いでのメーンイベント。統一大会堂で、昨年のコンサートでも会ったグエン・ティ・ビン元国家副主席と私たち国際代表団との会合。ここは、南北が統一される前は南ベトナム大統領官邸で、いかにも高官が並んで大会議を行うような荘厳な雰囲気の大きな部屋。 今回、国際代表団として招待された50人余の人々の国は19ヶ国。イギリス、オーストラリア、フランス、オークランド、フィリッピン、タイ、モンゴル、インド、ドイツ、キューバ、ポーランド、デンマーク、ニュージーランド、チェコ、カンボジア、ロシア、?とそして日本。 最初に、招待側を代表して、ウイン・バン・ロンホーチミン市委員長が挨拶をし、続いてインド人で元世界平和評議会議長のドネル・サンラ氏や、ロシア空軍司令官アナトリ・マロビック氏などが次々と、過去の国際的支援の模様と30周年のお祝いと招待されたお礼を述べる。そして、夫々席を立って国からのお土産を渡す。本多さんはベベトナム南部の取材ですでにホテルをたたれていたので、日本人は3人。私たちは発言を聞きながら「日本からはおみやげないよね」などと話していた。 続いて、列席者が手を上げて発言。東大副学長の古田先生が手を上げられ、ベトナム語で発言された。列席者のうちベトナム語での発言は、先生を含め3人ほどだった。サスガー!と内心誇らしい。もっと嬉しかったのは、古田先生が話されている時、グエン・ティ・ビンさんたちが他の発言者の時よりずっと肉親のようにニコニコと和やかな表情をされていたことだ。 その発言が一段落し、いよいよ最後なのか、勲章と賞状が贈られはじめた。 最初は、英雄賞として、フランスのジャーナリストとチェコの言語学者2名。グエン・ティ・ビンさんから勲章をつけてもらって皆拍手。 2番目は、平和賞として、ラオスの准将、パリ和平会談の時国際監視団の一人であったポーランド人、ロシアのミサイル部隊の空軍司令官、アメリカでベトナム反戦運動をしたアメリカ女性の4人。 そして、三番目は、国際平和友好賞として、デンマーク大使、ニュージーランドの総領事、インドの世界平和評議会元議長、ラオスの国会議員と名前を呼び上げられる。隣の通訳の藤原さんが丁寧に訳してくれるのだけれど、もういい加減に名前がコンガラガッテきた。突然、6番目にKumiko Yokoiと、私には聞こえた。「エッ私?」とビックリ仰天。やっぱり私なので前に出て、グエン・ティ・ビンさんから勲章をつけてもらった。私がお礼の気持ちをこめて突然、「ベトナムホーチミン」を大会堂に響くように歌ったら、グエン・ティ・ビンさんが嬉しそうに抱きしめてくれ、皆で大合唱になった。その日、表彰され勲章を受けたのは計13人。 私は、生まれて初めて勲章をもらったけれど、考えてみれば、勲章をもらうほど、私はベトナム支援をしていない。「戦車は動けない」の相模原の現場にも私は行っていないし、長い間ゼッケンをつけたり、1円玉募金でベトナムに病院を建てたりもしていない。ただ、私が思うには、櫛田ふきさんなど30年前に活躍された人たちの多くが亡くなられていることだ。また、日本でもたくさんの人たちや団体が、ベトナム戦争を反対し、ベトナム人民を支援し、また、ジャーナリストや写真家もたくさんいたけれど、きっと、たくさんある団体、たくさんいるジャーナリストや写真家に贈るのは不公平なのだ。だからきっと私のような当たり障りのない音楽家が勲章を頂いたに違いない。 今回の賞には、頂いた方々を見ても、あくまで30年前のベトナム支援が主題で、枯葉剤被害支援の意味合いは含まれていない。でも、私は、この賞を、30年前の功績としてとらえず、ベトナム戦争の残した負の遺産である枯葉剤被害支援という、現代の支援活動につなげたいと思っている。また、きっとベトナム側も、それを期待をして横井久美子に勲章をあげようとしたのではないかと勝手に推測している。でも、勲章をもらおうが、貰わなかろうが、人間としてやりたいことはやらなくっちゃ! 横井久美子 2005年5月11日 |
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