Kumiko Report 5/15/2005
ベンチェ省立障害児学校

5月6日、私たちは、朝早く起きて、ホーチミン市から南へ2時間ほどのベンチェ省立障害児学校へ向かった。3月の下見の時は車だったので、車の中に居たままフェリーに乗れたが、今回は、みんなバスから降りてフェリーに乗った。

学校の中庭に咲く火炎樹 この台所で190人分の食事を作ります

ホーチミン市の目抜き通りにある、日本の青山通りのとも言われるドンコイ通りの名前の由来は、ベンチェ省にあると言われる。ドンコイとは蜂起という意味で、1960年までの反政府武装蜂起で最も有名な蜂起が、ベンチェの蜂起で、それをきっかけに反米闘争はさらに激しくなった。そのため、ベンチェ省は、米軍によって枯葉剤を散布され、全の緑を失った「不毛地帯」の状態が長く続いた。数十年にわたり、枯葉剤の魔の手がこの貧しい土地の家族を悲惨な境遇へと陥れてきた。

こうした状況を知って、1990年4月30日、坂東あけみ氏をはじめとする日本のNGO「ベトナムの子ども達を支援する会」の援助でできた学校が、ベンチェ省立障害児学校です。3月に下見に来た時は、お昼寝の時間でしたが、今回は、スゴイ歓迎振り。小さなホールに入るともう全て準備万端。

ベトナムの太鼓 一絃琴とギターと歌の演奏
ずっと泣いていた中川さん ミュージカルの一場面

校長先生が最初に挨拶し、次に私が挨拶し、数曲歌い、日本から持ってきた車椅子を贈呈した。その後の子ども達の歌や、演奏や、踊りの素晴らしいこと。目の見えない子、話すことのできない子、肢体の不自由な子、皆一緒になってできることを精一杯表現してくれた。その内容も、ベトナムが、鳳凰と龍から生まれた卵から出来たという歴史をもとにミュージカルにしたり、ベトナムの風土を歌ったり。また、その指導をし、一つ一つ司会をして紹介してくれる先生の喜びに満ちた目の美しいこと。広島の中川恵子さんが送った車椅子が、すぐミュージカルの場面に使われた時には、中川さんもみんなも涙、涙。

私たちがとても嬉しかったことは、この学校が、日本のNGOによって出来たという、ただそれだけではなく、その内容が、日本の障害児教育の優れた到達点がここに生かされているということだった。「ベトナムの子ども達を支援する会」の代表である高谷清先生は、「びわこ学園」の園長として、長く障害児教育に携わってこられた方です。

車椅子を贈る中川さん トック君と「さくら」の演奏

帰途につく私たちは、誇らしさでいっぱいでした。ベトナムでもいろんな日本人がいて、昨年も、今年も、外務省関係の人たちに日本人として怒りと恥ずかしさを持ったのですが、こうした所で、日本人は、素晴らしい仕事を着々としているのです。そういう人たちの仕事と出会えて、私たちは日本人として誇りに思いました。でも、日本の社会のなかでこうした素晴らしい教育を実践する場がますます狭められていることも事実で、日本の子ども達の現状にまた、胸が痛みました。

そうそう、ミトーからフェリーに乗った時、周りにベトナム人がいっぱいいたので、私は、ベトナムの新聞の私の記事を見せ、突然「ベトナムホーチミン」を歌いました。周りの人は、とても恥ずかしそうにしながらも、興味しんしんで、もっと歌えというので、調子にのって歌っていると一人の人がサインしてくれといい始め、始めると、私も、私も、と、私は超人気歌手のようでした。
それを見ていたツアーの参加者の一人が私にいいました。
「『横井久美子メコンデルタで歌う』ってこのことネ!」
そうです!まさしく私はメコンデルタの真っ只中で歌ったのです。

横井久美子
2005年5月15日

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