Kumiko Report 6/11/2005 |
デビューの地、函館コンサート 9日、「新たな旅立ち 歌って愛して 横井久美子コンサート」が 函館市芸術ホールで行われ、フルメンバーで35周年記念プログラムを演奏しました。 函館は、私のデビューの地であり、昨年の35周年のコンサートにぜひと思っていたのですが、実現せず、とても残念でした。でも、昨年2月「憲法集会」、10月「母親大会」に呼んで下さった方々が、実行委員会を組んで素晴らしいコンサートを開催して頂きました。 前日、函館空港に着くと、主催者の方々が出迎えてくれて、そのうちの男性がスズランの花束を。ウーン函館らしい!36年前、その時はまだ青函連絡船でしたが、函館に着くとき、函館を離れるとき、いつもたくさんの人が来てくれた。たとえ飛行機になっても、そうした人の暖かさや情景がすぐ浮かぶ。函館はアッタカーイ! 『はじめて歌ったところは函館だった。たった一人ギターを持ち、青函連絡船に乗り、津軽海峡を渡って飛び込んでいったのは「函館ドック」構内だった。昼休みの会議室に、100人近い作業服を着た男たちが私を待っていた。東京からやってきた、髪の長い、ジーンズをはいた音大出の「ドナドナ」を歌う歌手に、造船労働者は最初、無愛想で何も反応しなかった。ライトのあるステージやテレビのスタジオでしか歌ったことのない私は、心細くて無我夢中で歌いつづけた。そんな私に、手を伸ばせばとどくような距離にいる彼らからだんだん無言の言葉が返ってきた。「おめえがんばれよ」「応援してるぞ」。無視されたり無関心な態度を予期していた私は、このストレートな反応に驚き励まされた。今まで知らなかった世界がそこにあった。飾らなくても誠実に音楽を伝えていけば分かってもらえる世界が。そして音楽はステージやテレビの中だけのものでなく、働き、生活し、生産している場にもあることを。音楽は専門家や愛好家だけのものでなく、誰もが必要としていることを。商品としてでもなく、教養としてでもなく音楽が存在できることを教えられたのである。幼いころから自分自身のために学んできた音楽が、こういう場で喜ばれ役に立つことを知り、眠っていたエネルギーが引き出されたような感動を覚えた。私はこの時、自分の存在が初めて社会とつながり、社会が必要とする人間になれる道を見つけたと思った。そして、生きることと歌うことが一つになれる道も。1969年3月。私は24歳だった。』 (『ただの私に戻る旅』より) こうして私は、芸能界とは違う道、ピープルズパワーによって支持される音楽家の道、本当に幸せな音楽家の道を選んで、歌い続けて36年経った。でも、これほど私の中で「ハコダテ」の持つ意味が大きくても、それは、私一人の想いだった。35週年記念コンサートを函館でしたかったけれど、なかなか実現しなかった。 この私の想いを受け止めてくれたのが、「憲法集会」主催者で今回の事務局長の宮腰さん、「母親大会」の主催者で、今回の実行委員長の広瀬貞子さんだった。特に広瀬さんは、看護士として、働く女性として、横井久美子を、共に時代の風に向かって、まっすぐひたむきに生き抜いてきた女性として受け止めてくれ、実行委員長を引き受けてくれた。今回のコンサートの成功は、この広く人望のある広瀬貞子さんの決意にあった。口数の少ない広瀬さんが、打ち上げの最後の挨拶で、「宮腰さんと心中するつもりだった」と、初めてたくさん語り、私は、ちょっと言葉で表せない位、深い、本当に深い感動を覚えた。 この広瀬さんの深い想いがみんなを揺り動かした。たくさんの方々が実行委員になってくれ、その中には、私が24歳の時、私を迎えてくれた函館労音の人たちも何人もいた。ジュンちゃん、山本さん、ナド、太田さん、キノちゃんなどなど。ジュンちゃんは私より4,5歳しか違わないけれど、「私、横井さんのジーパンも洗ったの」という位、ズットお母さんのように私を世話してくれた。みんなが仲間のように、それでもこれから船出する歌手をとても大切にし、励ましてくれた。そんな時のことが、昨日のことのようにドッと甦ってきた。当夜の会場には、その頃の人たちもいっぱい来てくれて、最初は、お客さんというより身内が心配するような感じで「横井さん大丈夫かしら、ちゃんと歌えるかな」というような雰囲気があった。 今回、心残りというか悲願だった函館でのコンサートが終了し、これですべて35周年記念コンサートが終わった。これから本当に私は、「横井久美子」を楽しめるように気がする。今回の函館のコンサートは、タイトルどうり、私の「新たな旅たち」になった。函館の皆さん、函館からデビューした横井久美子は、また、函館から新たな旅たちをします。本当にありがとうございました。 横井久美子 2005年6月11日 |
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