Kumiko Report 2/10/2006
櫛田ふき没後5年記念の集い

2001年2月5日に櫛田ふきさんが102歳を直前に亡くなれてちょうど5年。1995年から「ふきとくみこのトーク&ライブ」を17回、その後、「ありがとうふきさんの会」として5回続け、2月5日、今回で私にとっては22回目のライブをした。

櫛田ふきという名前を聞いただけで、人々の心にポッと柔らかな陽が射すのだろうか。自然と人が集まり、あったかい集いができる。私は櫛田ふきという人は、本も書かれたけれど、人々の心のなかに「柔らかな陽射し」として生きつづけ、それが、ふきさんの残した最も大きなものだと思う。だから、一応最後となる今回は、たくさんの方の心に残っているふきさんを語ってもらおうと思った。

まず、最初は、櫛田さんのために創った歌「あなたをみていると」を歌い、杵淵智子さんの登場。杵淵さんは、櫛田さんの私設秘書(?)として、後半の人生をサポートされ、この「トーク&ライブ」が続けられたのも、杵淵さんがいたからだ。杵淵さんは、櫛田さんが亡くなられた時の新聞各紙に掲載された記事や、櫛田さんの人柄を紹介してくださった。

続いて、婦人団体連合会の会長の堀江ゆりさん、新日本婦人の会会長の高田公子さんが心に残るお話をしてくださった。櫛田さが代表をされていた団体だから、このお二人には、是非来ていただきたいと願っていたのが通じて嬉しかった。俳優座の矢野宣さんも来て花を添えていただいた。櫛田さんの長女画家の伊達緑さんも前に出て「お母さんが大好きだった」と、思い出を話され、緑さんの話される櫛田さんの「お嬢様ぶり」にみんな大笑い。その後、休憩や歌を挟みながら「3分リレートーク」で沖縄、山形、函館からの方も含め10人の方が次々と話された。輝き隊のメンバーもたくさん参加していただいた。最後に「今日の日はさようなら」を歌って、櫛田さんにお別れした。

私は、櫛田さんの言葉がいろんな場面で蘇える。最近、ある人の行動に批判、不満をもった。その時、以前同じようなことがあり、それを口にしたら櫛田さんから「人の振り見て我が振りなおせ、よ」といわれたことを思い出した。また、ソング&エッセイ「歌って愛して」の中で「人生の師、櫛田ふきさん」として書いた櫛田さんから私は、今も叱咤激励され、自らを正しているようだ。
要約すると櫛田さんは、
1、手紙や言葉で人を幸せな気持ちにする人だった。
2、肩書きや組織を感じさせず、いつも一人に向かって話される人だった。
3、裏方と主役を同時にできる人だった。
4、100歳をこえてなお、的確にその場に一番あうスピーチをユーモアを交えて、簡単明瞭に話された人だった。
5、「右手にらいてう、左手に平和憲法」と100歳にして平和への情熱をもたれた人だった。
この5点は、今後も私のなかに生きていくだろう。私は、櫛田さんのずっと近くにいて、櫛田さんから降り注ぐようなかけがえのないパワーをもらった。その櫛田さんに学びながら「私は私らしく」生きて生きたいと思う。

横井久美子
2006年2月10日











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