Kumiko Report 4/28/2006 |
大成功!北の被爆者とのつどい 21日、札幌エルプラザホールで行われた「北の被爆者とのつどい」は、会場が満席になり、また、プログラムも練られていて大成功でした。 開会前に20分余の映画「にんげんをかえせ」の上映があり、主催者の挨拶のあと、「模擬法廷」がありました。原爆症認定を訴えている3人の原告(が、裁判長に促され証言をされました。 いっぱいの客席は、その悲痛な叫びに引き込まれシーンと聞き入り、その後、弁護団長の高崎暢弁護士から20分余、原爆訴訟の経過が分かりやすくまとめられて報告されました。 休憩のあとは、地元の女性合唱団「コンプリオ」が演奏。実は、この合唱団の指揮者(指導者)は、私の国立音大時代の後輩の唐渡衣江さん。この企画の前にも、電話で近況を語りながら「一緒に集いを成功させましょうね。」と話していた。その後私の演奏。私は、「ヒロシマ」「にんげんをかえせ」「死んだ男の残したものは」「どこかで春が」と歌い、続いて、原爆症認定訴訟と同じように、「芦別事件」で国を訴えてたたかい、歌詞に札幌の地名が出てくる「飯場女の歌」を歌い、その歌の原詩者の井尻光子さんもいらして客席から舞台に上がって貰いました。 そして、原告の方々3人とのトーク。北海道の被爆者運動で先駆的な役割を果たしてこられた安井晃一さん。アメリカは、戦後1ヶ月後にヒロシマに入った米軍兵士には保障していることなどを北大図書館に通いデータを集められ、被爆者の先頭に立って来られた。藤井節子さんは、5歳で被爆されたが、3年前、息子さんが26歳で多臓器不全という病名で亡くなられた。ちょうどこの日4月21日が命日ということでした。 3人目の柳谷貞一さんは、冒頭、「私は第二次世界大戦の末期に、日本の本土を守るため、当時の言葉で言うと、「醜の御盾(しこのみたて)」の一兵隊として広島に派遣されました」といわれました。このレポートをお読みの皆さん、「醜の御盾(しこのみたて)」という言葉をご存知ですか。私は、初めて知りました。天皇の盾となって外敵を防ぐ防人が自身を卑下していう語で、万葉集の『けふよりはかえりみなくて大君の醜の御盾と出で立つわれは』(広辞苑)」からきているそうです。 柳谷貞一さんは、爆心地から2キロの陸軍船舶通信補充隊で被爆されました。その後、数々の病に冒されながら、生活もあり、被爆者への差別があって、被爆50年目にやっと娘さんにすすめられ被爆手帳を手にしたといわれました。その後、原爆症と認めて欲しいと申請したけれど却下。「これが『醜の御盾(しこのみたて)』として国に尽くし、生涯苦しんできた被爆者に対する態度なのか」と、原告になられた。集会は原告の3人と合唱団と私で「にんげんをかえせ」を会場と共に歌い終了。 二次会で、「醜の御盾(しこのみたて)」発言の柳谷さんが、「今まで生きていたよかった。裁判に立ち上がってよかった。法廷で国を訴えることができてよかった」といわれた。また、藤井節子さんも「人の前で話すのは、いやで来たくなかったけれど、娘と一緒に来てよかった」といわれた。たくさんの人が集まってくれたこと。このことが一番被爆者、原告への励ましだと痛感した。数は力。緻密な進行表をつくられ、満席まで粘り強く力を尽くしてこられた主催者のみなさんに感謝!と拍手!大成功の後、2次会も盛り上がり、12時まで続いた。 さて、私は、翌日は、また、6時に起き東京へ。葛飾区南綾瀬地区センターで行われた「輝け憲法!葛飾医療生協9条の会発足集会」で歌いました。最初に佐々木順二氏の記念講演があり、その後私のミニコンサート。リハーサル中「昔見た顔と違うなー」とか「10周年コンサートでよみうりホールに行きましたよ」とか「私『自転車にのって』が好きなのよね」とか、昔の古い(?)ファンが出現しました。 吉田たくろうも最近、団塊の世代が退職して時間ができて昔のファンが戻ってきているそうです。たくろうがガンになっても相変わらず歌い続け、たくろうらしい生き方をしていることが、団塊の世代へのエールになっているようです。小規模な集まりでしたが、私もまた昔のファンの方が「横井久美子」に再会するチャンスを作っていただけたと思いました。スゴーイ強行軍で疲れましたが、暖かいしっとりとした集まりをありがとうございました。 横井久美子 2006年4月28日 |
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