Kumiko Report 01/17/2007
No3ビクトル・ハラ

1月4日、午後、私たちはビクトル・ハラ財団を訪ねました。



ビクトル・ハラは、アジェンデ政権を生み出した人民連合を支える文化運動「ヌエバ・カンシオーン(新しい歌)」のリーダーで、中南米代表する作曲家、歌手、演出家でした。1973年9月11日のピノチェット軍司令官のクーデターにより、チリスタジアムに拉致され、拷問を受け、見せしめのためにギターを弾く手をくだかれ、その後銃殺されました。軍事独裁政権下では、庭を掘りおこしてでも、彼のレコード、書籍を持っている人は逮捕されました。

チリは、1990年、17年ぶりの選挙で民政移管し、さらに昨年、中道左派のバチェレ大統領が誕生したおかげで、「ビクトル・ハラ財団」は、政府の援助を受けているそうです。


ビクトル・ハラの写真の横には「アマンダの思い出」の歌詞が書かれ、また、見せていただいた映像でもこの歌を歌っている場面があり、ここでも、私は、突然ギターを貸してもらって「アマンダの思い出」を歌い、そして、みんなで「ベンセレーモス」を初演?

ギターを貸して、といったらエレキギターを持ってきてくれて、これじゃダメといったら、別のギターを持ってきてくれた優しいビクトル君。実は、ビクトル・ハラの孫という好青年。財団の中にあるホールのステージに腰掛けてパチリ!

2007年から、財団は、「ビクトル・ハラ カンタ・アルムンド(ビクトル・ハラ世界に歌う)」という企画で、ビクトル・ハラの業績を世界に広げる仕事をしていくそうです。日本でも開催出来たら嬉しいと言っていました。


財団の前で、歌の練習。私は、南米まで行くのでハンディで小さなギター「バックパッカー」を持って行きましたが、やはり音は小さくて、使い勝手が悪かった。

ピノチェット独裁政権は、1989年まで17年間続きましたが、ピノチェットは、大統領辞任後も終身の上院議員、陸軍総司令官としての力を保持していました。独裁当時の弾圧や虐殺や不正蓄財などで告発されていましたが、2005年9月、チリ最高裁は、ピノチェットを健康状態から裁判に耐えられないとして、左派の活動家の誘拐・殺人の罪状を棄却しました。2006年12月10日、ピノチェットはそうした罪を明らかにしないままサンチャゴの陸軍病院で亡くなりました。

ビクトルは、クーデターの起こる1973年、身の危険を感じて家族を安全な場所に避難させました。イスラ・ネグラのネルーダの家の近くで海岸のそのばの休日用の質素な家でした。そこで創った歌をハラ夫人は「私には、ビクトルが遺言を書いているのだということが分かった」と書いています。

「Manufesto(宣言)」

歌が好きだから歌うのではない
声がいいから歌のではない
僕のギターが感情と 理性を持っているから歌うのだ
ギターには大地のこころがあり 鳩の翼がある
ギターは聖なる水のように 喜びと悲しみを祝福する
僕の歌は目標を見つけた
ビオレータが言ったような 春の匂いがする

働き者のギターよ 金持ちのためのギターじゃない
それとは全然 違ったものだ
僕の歌は星まで届く 梯子のようなもの
真実をこめて歌を歌い 歌いながら死んでいく男の
血管の中で脈打つとき 歌は意味を持つものだから

僕の歌は束の間の賛辞をもらうためでもなく
外国で有名になるためでもない
この細長い国の
大地の底の底まで届かせたいのだ
そこには安らぎを求めて 
あらゆるものがやってくるし あらゆるものがそこから始まる
敢然と闘ってきた歌は いつまでも新しさを失わないだろう
                           (1973年)
この後私たちは、財団の女性に案内されて、ビクトル・ハラが虐殺されたチリ・スタジアムに向かいました。


当時このスタジアムに拉致され、拷問を受け、ビクトル・ハラと一緒だったという男性が案内してくれました。

ビクトル・ハラが座らされていた席53番。その席に座ってみる。

スタジアムの入り口には、このスタジアムで拷問されている間にメモされ、密かに仲間によって託され外に持ち出されたビクトル・ハラの詩が掲げられていた。
夫人のジョーン・ハラさんは、幾人もの人がこの詩に曲をつけたいというけれど、この詩は詩のままが
ビクトル・ハラの思いが伝わると考え申し出を断っているそうだ。

ここに俺たち5千人 首都の狭い片隅に
俺たちここに5千人 
だが国中の町や村では どんなに多いことだろう
ここだけでも 畑に種を蒔き 工場を動かした
一万の手がいるのだ なんとたくさんの人間が
腹をすかし寒さにふるえ 恐怖におののき拷問に呻き
テロと狂気に襲われていることか
(中略)

どんなにつらいことだろう 恐怖について歌うことは
生きるも恐怖 死ぬも恐怖
かくも多くの恐怖の中に身を置き
沈黙と悲鳴のこもる 無限の数の瞬間の中で
私の歌は終わる
かって見たことのないものを見て
感じたもの、今感じているものが
生み出すであろう、その時を、、、
                 (チリスタジアム 1973年9月)

「例の将校が、自制を失いほとんど、ヒステリックな状態で、彼に向ってわめいたこと。『できるもんなら歌ってみろ、こん畜生!』、すると、この四日間の責め苦にもかかわらずビクトルの声がスタジオに起こり、人民連合の頌歌『ベンセレーモス』を歌った。そして彼は、打ち倒され、引きずりだされて彼の苦しみの最後の局面に送られることになった。」(「終わりなき歌」ジョーン・ハラ著/矢沢寛訳)

私たちは、ビクトル・ハラの最後の状況を聞き、最後にこの場で「ベンセレーモス」を歌おうとおごそかに歌い始めました。二人のチリ人は、スペイン語で。そして、最後に「ベンセレーモス!」と拳をあげて叫びました。34年前の世界を揺るがしたクーデター。その生き証人のガイドさん。恐ろしい拷問や殺戮が行われたスタジアムで「ベンセレーモス」を歌ったビクトル。今、生きて地球の裏側から訪れている私たち。私たちは、言葉にならないさまざまな深い思いを抱いてスタジアムをあとにしたのでした。



横井久美子
2007年1月17日     

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