Kumiko Report 01/18/2007 |
No4アジェンデ財団 1月5日、午前、私たちはアジェンデ財団を訪ねました。 「もう一つの9・11」 医師からチリ社会党結成に参加し、保険大臣としても入閣した経歴を持つサルバドール・、アジェンデ。社会主義政党の統一戦線である人民連合は、1970年、自由選挙により政権を獲得しました。しかし、反発した富裕層や軍やアメリカに支援された反政府勢力などによる暗殺事件が頻発。1973年9月11日、ピノチェット将軍がクーデターを起こし、ホーカー・ハンター戦闘機と機甲部隊の激しい砲爆撃のなかで大統領官邸(モネダ宮)は炎上しました。アジェンデ大統領は降伏を拒否し、炎上するモネダ宮内で自ら自動小銃「を握って反乱軍と交戦中に命を落としました。死因については自動小銃による自殺説が有力だけれど、反乱軍に殺害されたという説もあるそうです。 私たちは、ビデオで1990年民政移管後の葬儀の模様を見たり、炎上するモネダ宮から最後にアジェンデがラジオを通して語ったきれぎれれの生の声を聞かせてもらいました。 「これが私がみなさんにお話できる最後の機会です、、、私は辞任しません、、、、人民の忠誠に私の命で報いるでしょう、、、私はみなさんに言います。何千何万というチリ人の良心の中に蒔いた種子は、根絶やしないと私は確信しています、、、悪であろうと権力であろうと、社会変革の流れを逆行させる力はありません。歴史は私たちのものです。なぜならそれは民衆がつくるものだからです、、、。」 私の左の若い女性は、クーデター後両親とスイスに亡命し、民政移管後帰国し今は、ここの仕事を手伝っている。私がアジェンデ夫人とイザベルさんの1974年九段会館での写真を見せると財団で資料としたいと言われました。また、そこには70年代に日本で発行された「ベンセーモス」の楽譜もありました。 この財団の活動は、小さなアパートからはじまって、現在の建物は、次女のイザベル・アジェンデ(元下院議長)が、亡命先から帰国後、奔走して手に入れた1935年建造の建物。しかし、全く偶然にも、軍事政権時代、チリ国家情報局のオペレーターセンターだったそうで天上が崩れたとき、チリ大学などの組織図など隠していた秘密書類がたくさんドサッと落っこちてきたそうです。(写真右上) クーデターの翌年1974年からこの仕事をしているガブリエラ・スエーラさんは、「こうしてこの建物は、死者の家から生者の家になったのです」と語っていました。 ここでも私たちは、「ベンセレモス」をスタッフを前に歌い、最後は、ガブリエラさんを囲んで歌いました。 財団には、1970年に設立された連帯美術館が併設されていて、案内されて一歩足を踏み入れてビックリしました。「エッ!ミロのの絵じゃない?ピカソの絵じゃない?」。2500点もの絵画、彫刻などが、スペイン、ベネズエラ、ハンガリー、フィンランド、オーストリアから南米に生まれた人民連合政権に連帯して寄贈されたということです。クーデター当時、軍に持っていかれた作品も何点かありましたが、ほとんどは、分散して保存し、現在は一同に並べられてこうして見ることができるようになりました。 チリに来てまだ2日目。でも、アジェンデの人民連合政権がいかに音楽や絵画などの文化と結びついた社会変革だったかということが各所で見られ、密かに深く感嘆の声をあげていました。 午後は、「行方不明者家族の会」をたずねました。 横井久美子 2007年1月18日 |
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