Kumiko Report 01/19/2007 |
No5行方不明者家族の会 1月5日、午後、私たちは、「行方不明者家族の会」を訪ねました。私が「ベンセレモス」を日本語にしたと話すと、ガブリエラさんは、昨年「ピースボート」の人たちがここを訪ね、日本語で歌ってくれたと快く迎えてくれました。(実はそのうちの一人は私の友人) 9月11日クーデター後、政権を握った軍部は、すさまじい「左翼狩り」を行い、多くの左翼系の市民が虐殺され、投獄され、暗殺され、非公然に強制収容所に送られました。1973年から1976年の間に連行され、現在分かっているだけで1197名の行方不明者がいて、そのうち72名が女性で、5名が妊娠中だったそうです。 「ポプラシオンでは、戦車が路地の中を走り、木造家屋に向っていちいちドアを開ける手間もかけず、中に子どもがいるかどうか確かめもしないで、無差別に発砲していた。毎日新しい死体がマポチョ河に浮かんでいたり、労働者地区の溝の中に投げ捨てられているのが見つかった。おそらくは故意に、テロの風潮をつづけるためと、同時に刑務所やスタジアムから処刑した死体を取り除くためだったのだろう」 (「終わりなき歌」ジョーン・ハラ/矢沢寛訳) ガブリエラさんは、胸に夫の写真を付け、彼女が21歳の時、夫が行方不明になり、それ以来、行方を追っていると訴えました。「亡くなっているかもしれない!でも、生きているのぞみを捨てない!心がいつもゆれています。もし、亡くなっていたらどのように亡くなったのか!私には夫の体の一部すらない!何の痕跡もない!ピノチェットは何の罪も明らかにすることなく死んだ。そんな風に犯罪の責任者を許していいのでしょうか!私はすべてを明らかにするまで追求する!こうした苦しみを二度と繰り返さないために後世の人に語り継いでいきます!」
チリ到着の日に「流し」の男性が「ベンセモスを知ってはいるけれど歌えない」と言ったのは、この国が1990年に民政移管されたとはいえ、ピノチェットの影響である「負の遺産」がまだまだいたるところに残っているからです。チリでは、軍政時代に作られた非民主的な仕組みである上院議員制度(選挙を経ずに軍幹部らが指名される任命)によって、上院ではつねに右派勢力が多数を占めてきました。この制度が撤廃されたのは、2005年です。 昨年12月10日亡くなったピノチェットが入院していた陸軍病院の前では、親ピノチェット派、反ピノチェット派のデモがありました。私がバスの運転手さんに「ベンセレモス」の話をした時も、避けられました。また、サンチャゴ市長は、目抜き通りのケネディ通りをピノチェット通りにする案を議会に出すそうです。私たちは、ピノチェットの死亡直後、親ピノチェット、反ピノチェットの勢力が拮抗しているまさに歴史の転換点にチリを訪ねたのです。 ですから、「流し」の人がレストランで政治的な立場を表明する「ベンセレモス」は歌えないのです。ベトナムで「ベトナムーホーチミン」を、北でも南でも平和村でも保育園でも歌えるのとは違うのです。だからこそこうした政治状況のなかで「行方不明者家族の会」が、運動を続けていくのは大変だと思いました。こういう団体こそ心から支援連帯したい想いでいっぱいになりました。戦い続けるガブリエラさんの勇気に心から拍手をして、私たちは「行方不明者家族の会」を後にしました。 その後、私たちは、アジェンデ大統領が最後を遂げたモネダ宮を見学。しばらく前までは、弾丸が生々しく残っていたそうです。2階が大統領執務室で、時々バチェレ大統領が顔を見せるそうですが、残念なことにこの日は見ることは出来ませんでした。 夕食後、レストランから出ると、入り口で民族衣装に身を包んだ流しの音楽集団とばったり!私たちのために、プロポーズの歌を歌ってくれて、私たちは大喜びでした。突然のステキな夜でした。 20日21日は、「1000人の女性展」で京都に行きます。 横井久美子 2007年1月19日 |
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