Kumiko Report 01/24/2007
No7中央墓地

1月7日は、サンチャゴにある中央墓地に行きました。1990年、昨日訪れた共同墓地から17年ぶりにアジェンデの遺体が掘り起こされ、この中央墓地に移されました。その時の映像をアジェンデ財団を訪問した時観ましたが、アジェンデの遺体を運ぶ車を沿道に人々が迎える姿に感動しました。アジェンデのお墓の前で。



すべてお墓です。

9月11日の軍事クーデターの犠牲者の名前が刻まれた大きな石碑の
前に来ると、横断幕を持った人たちが何か叫んでいました。5日に訪ねた「行方不明者家族の会」の方々でした。「私がスゴイ偶然!、ほんの少し時間が違ったでけでもで出会えなかったね」というと、「これは絶対必然よ!犠牲者の方々の魂が、家族の会の人たちと私たちを引き合わせたのよ!」という声。墓地で歌を歌うのはどうかと思ったのですが、彼等は、シュプレヒコールをしていたので、私が小さな声で「ベンセモス」を歌い出だすと「家族会」の方々も歌いだしました。ビックリするような偶然、いや必然の場面でした。


その後、私たちは刺すような日差しの中、ビクトル・ハラのお墓やその近くのただ十字架が並んでいるだけのクーデター犠牲者のお墓を訪れました。赤い枠がビクトル・ハラのお墓で、随分小さいのにびっくりしました。


最後に私は、ビオレータ・パラのお墓に連れて行ってもらいました。
ビクトルハラの妻であるジョーン・ハラの「終わりなき歌」の中にビオレータについて書いている文章があります。

「60年代の半ば、彼女が重要な人物で、その長年の調査研究が後へ続くものへの模範とされるようになったとはいえ、ビオレータは気の強い、付き合いにくい人だった。彼女の才能と創造性が若い世代の作曲家たちに大きな衝撃を与えたのは、その死のほんの直前、1966年だけだった。私はある晩遅くまでペーニャで座っていたことを思い出す。アンヘル(ビオレータの息子)がビオレータの最近の歌を集めて新しく出たレコードをかけた。そして私たちは『人生よありがとう』を初めて聞いたのだ。ビクトルは感動して涙を流した。数ヵ月後、1967年2月5日、ビオレータはサーカステントの中で一人淋しく自殺した。彼女が受けるにふさわしい一般的評価を受けはじめたばかりのときだった。
ビクトルが後に言ったように『私たちは誰も、ビオレータが生きている時には、彼女が人民の芸術家だということが分からなかった。私たちは彼女を批判したりさえもした。だが、時と民衆自身が認めるだろう。彼女は民衆の中で生涯の最良の年月を生きた。農民、坑夫、漁夫、工芸作家、北部のアンデス、南部のチエロ島の原住民の人々の間で。彼女は、彼らとともに生活し、彼らの生活、彼らの肌、彼らの血肉を分かち合った。このやり方によってだけビオレータは、『法皇様は何とおっしゃるのだろう』や『不正のただ中で』などの歌を作り出すことができたのだ。それらは新しいタイプの歌の誕生として、私たちの国の歴史に残るだろう」



私の愛してやまないビオレータ・パラ。「人生よありがとう」は、彼女の死から6年後に起きたクーデターによって拉致され、拷問を受けた人々が、「歌うことによって今日も生きることが出来た」希望の歌をなり、今では、スペイン語で書かれたもっとも美しい歌として、チリ到着直後に聞いたように人々に愛されています。私は、チリに来て、ビオレータのお墓に赤いグラジオラスを献花することができて幸せでした。

午後は、サン・クリストバルの丘に行き、また、ロス・、ドミニコスの民芸村にいき買い物をしたり、クエカを踊ったりする人もいたり、楽しみました。また、サン・サンクリストバルの丘からは、チリの首都サンチャゴが見渡せました。



ほとんど雨の降らない明るい日差し、キレイで近代的な都市、治安の良さなど、もっと観光客が行ってもいい国なのに、観光客は近隣国の十分の一ということです。今回は、チリを愛してやまないという超博識の若い三浦さんという素晴らしいガイドさんに恵まれ、私たちのツアーはとてもラッキーでした。いよいよ明日は、ベネスエラの首都カラカスに向かいます。

横井久美子
2007年1月24日     

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