Kumiko Report 13/Nov/2016
二ヵ月ぶりのHP ①

ワシントンから帰ってきて、次から次へと動いていて、HPを書く時間が取れなかった。気が付いたら2カ月ぶりで、こんなことは初めて。帰国後の出来事を順を追ってお知らせします。

10月14日(金) 重監房資料館へ
11月6日おいで一緒にinくにたちのゲストで歌って
下さる斉藤悟さんのお誘いで、群馬県吾妻郡草津
町にある「重監房資料館」へ行ってきました。

斉藤さんが草津口まで車で迎えに来てくださって、
1時間ほどで木々にjかこまれた資料館に着いた。

ハンセン病(らい病)というと、私は、手足が腐って
隔離される病気という認識でした。

幼いころみた映画「ベン・ハー」の中で出てくる
場面の影響が大きかったと思う。


しかし、ハンセン病は、「らい菌」に感染しておこる病気で、最初は皮疹と知覚麻痺で、だから熱いものに触っても、ケガしても知覚せず、皮膚が冒されていったのだということを、今回初めて知った。


以下は、ネットからの引用です。
ハンセン病の患者さんはどうして隔離されたのか?

国の政策が大きく影響しています。

1「感染する」という事実
 ハンセン病の治療法が見つかるまでは、世界的にゆるやかな隔離政策が進められていました。日本でもそれにならって隔離を始めますが、次第に隔離政策を強化していきました。

2「国辱」という認識
 明治時代、文明国の仲間入りをしようとしていた日本は、ハンセン病が自国内に存在していることを恥じ、神社やお寺などで生活をしていた患者を収容・隔離しました。(法律第十一号)

3「民族浄化」という考え方
 軍国主義が進む中、国民は貴重な兵力・生産力であり、健康であることが求められました。そのためハンセン病は排除するべきものと考えられ、在宅療養している方を含むすべての患者が強制隔離されました。(癩予防法)

このような理由で、ハンセン病の患者は隔離されてきました。すべての患者を強制隔離する医学的理由のない病気ですから、国の政策が大きく影響していることが分かります。

 

ハンセン病は有効な治療薬が1943年頃開発されて確実に治るようになったにもかかわらず国は強制収容を強行してきた。



国のハンセン病隔離政策の中で、多くの患者が強制収容され、その中で特に反抗的と言われた人を「特別病室」といわれる重監房にさらに隔離したのです。収監された患者の人権は完全に無視され、ここで死亡した人もいました。

資料館は、元の重監房をイメージして建てられ、当時の資料が納められていますが、下は実際あった重監房あとです。



戦後新しい主権在民の憲法ができたにもかかわらず、らい予防法は生き続けた。らい予防法は、1907年から廃止される1953年まで実に100年近く患者を苦しませてきたのだ。そして、ハンセン病患者対する差別は今も続いている。

重監房資料館は、人の命の大切さを学び人権尊重の精神をはぐくむ場所として、斉藤さんたち「ハンセン病訴訟を支援し共に生きる会」の10年余の運動によって建てられた。

私はハンセン病という名前は知っていても、これほど過酷な人権無視が行われていたことを知らず、斉藤さんのおかげで、日本アウシュビッツと言われる重監房、その資料館を知ることができた。誰でも見学できるので一度行かれることをお勧めします。

斉藤さんの車で1時間ほど、明日のコンサートの場所、「まほうのじゅうたん」に送ってもらいました。

10月15日(土)和食ペンション「まほうのじゅうたん」コンサート



毎年素晴らしいお料理と自然が満喫できる「まほうのじゅうたん」に呼んでいただいて幸せ。「まほうのじゅうたん」の裏の自然の素晴らしいこと!





いつも主催者の伊藤洋子さんが、
山で摘んだお花で皆さんを迎えて下さる。

その見事なお花ににいつも感嘆する。


一年に一度、この日を心待ちにして下さる方たちの前で歌うことができて本当に幸せ。終了後コーヒーとケーキをいただきながらお話し、幸せいっぱいになりながら、木村さんの車に乗せていただいて、軽井沢へ。

そして、翌日の横山作栄さん主催のコンサートのために高崎に出て、新潟に向かう。


 横井久美子        写真 前田孝子