Kumiko Report 16/Nov/2016
二ヵ月ぶりのHP ④

10月30日(日) 秩父.小鹿野コンサート

歌う楽校の吉田さん、内田さん二人が「小鹿野で横井久美子さんの歌声聴き隊」を結成して「横井久美子歌って愛してコンサートin小鹿野」をしてくださった

お二人は、遠い秩父から車で2時間かけて月に二回歌う楽校に通ってきて下さる。場所は小鹿野町観光交流会館「本陣」の奥の陣屋。




吉田さんのパートナーあきらさんは、スタジオ小風T(オフ 0494-75-5016 )という事務所のデザイナーで、このために
インパクトのあるチラシを作って下さった。

入り口にも特別につくって下さった長いポスターが私たちを迎えてくれた。

観光交流会館の中にある、この陣屋は、詩人で童話作家の賢治が、宿泊したそうだ。
賢治は大正5(1916)年9月、20歳の
ときに、秩父地方を盛岡高等農林学校
の地質調査旅行で訪れた。

賢治は子どもの頃に「石っ子賢さん」と呼
ばれるほど石集めが好きだったそうだ。

秩父地方は秩父古生層、新生代地層な
ど多様な地層が露出しており、地質を学
ぶ生徒には格好の実習地だった

小鹿野町は「花と歌舞伎と名水の町」といわれるほど歌舞伎も有名で、その季節には、この陣屋が舞台になり、戸をあけ放ち庭で人々が歌舞伎を見るのだそうだ。舞台の右側には宮沢賢治が宿泊した時の資料が展示されている。



舞台のお花とは別に客席の後ろにも右のような花が飾られて、そこだけスポットが当たっていた。

会場はお二人の尽力のおかげで満杯で、このお花が邪魔?だったという声もあったが、私にとっては
歌っている時、客席は暗いのに、その花だけが浮かびあがり、とても気持ちが集中し歌いやすかった。

これは、お二人の意図どうりだったそうだ。

この日は、秩父事件勃発の前日。秩父事件は、今から、133年前の1884年10月31日から11月9日にかけて起きた。

埼玉県秩父地方は昔から養蚕が盛んで養蚕農家の多くは毎年の生糸の売上げをあてにして金を借り、生活物資や食料を購入していた。1882年、ヨーロッパの生糸取引の大暴落の影響を受け、生糸市場の暴落と増税等が重なるとたちまち困窮の度を深めた。そして、その窮状につけこんだ高利貸や銀行が彼らの生活をさらに悲惨なものにした。

秩父困民党は、借金党とも呼ばれたそうだ。

当時、明治政府は政府主導による憲法制定・国会開設を着々と準備し、民権運動を弾圧し、やりたい放題だった。秩父で起きた蜂起は、警察では収まらず、ついに軍隊まで出して鎮圧した。これは今のやりたい放題の安倍政権と似ているのではないか?そして、弾圧すればすればするほど、新しい運動が生まれてくるという点も。



こんな話も含めながら、一部は暮らしの中から生まれた歌。二部は社会の中に生きる一人の人間としての歌などを歌った。二次会で今日のコンサートは、フルコースのプログラムだったという方がいたが、いい表現をしていただいたと思った。2時間のプログラムだとフルコースになるね。この日は2時間15分でしたが。

最後に地元のワインを下さるのは内田さん。

吉田さん、内田さん、そして、全体を仕切って下さった
吉田あきらさん。



この日は、歌う楽校の皆さんも遠くから駆けつけてくれました。



その歌う楽校の皆さんとこの夜は、秩父西谷津温泉の「宮本の湯」という由緒ある旅館に泊まり、一緒に
会食。楽しかった!

もっと楽しかったことは、翌日、皆さんと一緒に「長瀞のライン下り」をし、街を歩き買い物をし、昼食は、すごくおいしいお豆腐料理を食べたことです。

内田さん、吉田さんは、コンサートをはじめ、旅館の手配、観光案内と、すべての企画を、丁寧に見事にやりきってくれました。コンサートの次の歌う楽校に二人が姿を現した時には、「ありがとう!ごくろうさん!」と皆さんから拍手が出たほどでした。

陣屋という記念館で、私自身も充実感いっぱいのコンサートができ、その上、歌う楽校の皆さんと一緒に宿泊し、観光もできるとは!幸せいっぱいの秩父.小鹿野のコンサートでした。

吉田さんご夫妻、内田さんありがとうございました! 横井久美子


      写真 前田孝子