Kumiko Report 7/23/2003
新訳「夜と霧」

21世紀に入って坂を転げ落ちるように転落していく、政治、社会、経済状況の中にいて、いったい人間は、どこまで残虐化、退廃化していくのかどんより思っていた。いや、深いところで怖れていた。こんなに簡単に人々が目先の欲望(支配欲や性欲や金欲)のために走っている同じ時代の空気を吸っていて、自分だけが特別でいられるだろうかと。正義面していても自分の中にだって「悪」なるものがあるのではないかと。右傾化していく日本のなかで、本当に最後の最後まで私は私でいられるだろうかと。

明日からポーランド・チェコに出かけるというこもあって手にした一冊の本に深い感動を受けた。「心理学者、強制収用所を体験する」という原題で、フロイトなどに師事し、ウイーン大学医学部教授であったヴィクトール・E・フランクルの1947年に出版された「夜と霧」(みすず書房)。日本では1956年霜山徳爾訳で出版され読み継がれてきたが、今回もっと若い人に読んで欲しいと池田香代子訳の新版が出た。

まず、読み始めて最初に次の文章に出会ってトツゼン涙が溢れてきた。
「〜被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。〜わたしたちはためらわす言うことができる。いい人は、帰ってこなかった、と。」

数日前、NHKテレビ番組「私はあきらめない」で作家五木寛之氏が同じような話をしていた。戦後、集団で引き上げて来る時一緒にいた女性2名を敵兵に差し出して帰国した。今、ある自分は人を踏み台にして得た自分だ。そういうことができた人が大きな顔をして仕事をしている。あの場面が忘れられないと。

しかし、私が感銘を受けたのは別のことだ。収容所内での腸チフスの蔓延もふくめ生存率5lの状況のなかで、自分を堕落させず、生き抜いた人がいたということ。こうした中で「生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生き抜いていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、頑張り抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった」。「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える(ニーチェ)」など、地獄の状況におかれた時の光のような言葉が体験から語られていた。

数年前、心にさざなみがたち不安で眠れないとき、枕元にアランの「幸福論」をおいていて、よく読んでは心を鎮めていた。今は、「心のさざなみ」の種類は違うが、この「夜と霧」は、そうした一冊になると思った。

「夜と霧」これは、夜陰に乗じ、霧にまぎれて人々がいずこともなく連れ去られ、消え去った歴史的事実を表現するいいまわしだ。〜夜と霧はいまだ過去のものではない。」(あとがきより)

今から、「夜と霧」の現地ポーランドに出かけます。そしてチェコでは、マルタさん(Kumiko report5月13日)に会ってきます。

横井久美子
2003年7月23日

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