Kumiko Report 5/29/2004 |
橋田信介さんを悼む 昨日、イラクで日本人ジャーナリスト2名が銃撃を受けたニュースを聞き、まず橋田さんでは?という想いが胸をよぎった。そして、その後のニュースで彼の死亡が確認され、衝撃を受けました。 橋田さんとは1973年、北ベトナムで出会った。「横井久美子ハノイにうたう」の写真を撮ってくれた同じ日本電波ニュースの宇崎眞さんと共に、彼ら二人は、私達3人の「女性文化代表団」の取材をしてくれ、こうしたら、ああしたらと、ベトナム人が喜ぶようなことを教えてくれた。そして、その出会いがきっかけで、帰国後も、橋田さんがバンコクに拠点を移すまで、時々顔をあわせていた。 1993年、(もうそんな前のことと思うが、、、、)彼から電話がかかってきた。日本に来ていて会いたいという。カンボジアの内戦を取材中、ポル・ポト派に拘束され、撮影機材全部奪われ、命からがら脱出してきたという。今度は死ぬかと思った。でも、悔しいのでもう一度カンボジアに戻って取材する。バンコクで機材をそろえるより東京のほうがいいので、バンコクに帰らずに東京に飛んできた、という話だった。いつも飄々としている人だったが、その時は、死を覗いた人の顔をしていた。 彼は、ベテラン戦場ジャーナリストといわれるように、どの戦場にも彼の姿はあった。私は、彼も60歳を過ぎたので、もう戦場にはいかないのかなと思っていたら、数週間前、テレビから橋田さんらしきしゃがれた声が聞こえた。見てみるとやっぱり橋田さんで、サマワの自衛隊を尋ねている映像だった。やっぱりイラクに行ってるんだと思った。 彼の死亡のニュースを聞いた時、私は、「本望だろうな」と一瞬思った。「戦場は人間の極限が見える場、その毒みたいなものが身体に染み付いている。そこに何があるか知りたくなるんだ」と、30年余、戦場を駆け回り、そしてその戦場で死んだ。「本望」という言葉をまだまだ若い橋田さんに使うのは悪いかなとも思っていたら、奥さんの幸子さんも81歳のお母さんも「本望」という言葉をつかっていたのでやはりと納得した。 外務省は、邦人保護などと言って、イラクから全ての日本人に退去勧告を出している。しかし、自衛隊を派遣している日本のメディアとして、その情報を伝える責任はとこが負うのか。大手メディアが記者を派遣していないその空白は、橋田さんのようなフリーランスのジャーナリストが負っていて、私達はイラクで起きていることを知ることができるのだ。 橋田さんのあとに続くジャーナリストは後を絶たないだろう。戦争がある限り、そこで犠牲者がでている限り、戦場での真実を伝えるために。 横井久美子 2004年5月29日 |
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