Kumiko Report 7/22/2005
山ちゃん たくさんの優しさをありがとう!

7月18日(月)の朝、尼崎の義村さんからメールが入りました。
「尼崎のかがやき隊隊長の山口泰徳さんが、先週金曜日脳内出血で倒れました」「山ちゃんの大好きな横井久美子さんに伝えとかないと・・・と感じたのでお知らせしておきます。大好きな横井さんのCDをダビングしてもらい、奇跡をおこそうと、聞かせてもらいました。」

山口さんは、昨年、35周年記念京都コンサートを成功させる大きな力になっていただきました。介護の仕事をしながら、「オヤジーズ」というバンドをつくり、ギターを弾き、歌をうたい、「上手な人は、弟子にしない」というのに私の弟子と自称し、私のことを師匠と呼んでいました。尼崎市の白井文さんの歌をつくって、市長当選に貢献されました。

山ちゃんは、100キロ近い巨漢で、その巨漢に似合わずシャイで、またユーモアに溢れた、丁寧で優しい心配りが出来る人でした。「尼崎で30人集めて『春秋楽座』をしたい」と決意したその日から、周りの人に声をかけ、「輝き隊」を一人一人増やしていったのです。「横井さん、きょう鯛(隊)が2匹釣れました。餌は横井ソングです」「今夜これから夜釣りに行ってきます。」などなど、、。横井事務所の二人の女性スタッフは、山ちゃんに「ビューティペア」(プロレスの二人組?)と名前をつけられ、「これって喜べないよね」と、言われたり、、、。

そして、2003年12月20日、尼崎市で「オヤジースと尼っ子30人組」の「春秋楽座」が開かれました。着物を着た女性が4.5人前の席に。開けっぴろげでものすごく反応のいい、感動的な楽座でした。(2003年12月24日kumiko report) 
翌年の、5月9日の35周年記念京都コンサートには、たくさんの人を誘ってくださって、また、東京の100曲コンサートにも、国際フォーラムの「ファイナルコンサート」にも、来ていただきました。

私は、このまま、山ちゃんと会わないと、きっと、ずっと心残りになると思って、20日、京都コンサートの実行委員長である畠中幸代さんとご一緒に尼崎に行ってきました。新幹線に乗っているあいだ中、山ちゃんのいろんな場面の優しさが思い出され、涙がでました。病院に着いたら号泣するのではないかと思っていたのですが、山ちゃんは、酸素吸入器をつけているとはいえ、しっかりと腹式呼吸をしていて、身体も温かく、ただ眠っているようにしか思えず、なんだか「安心」したのです。

私たちは、きっとどこか感覚が生きている部分があるのではないかとさすったりしながら、「山ちゃん、起きなさい」と耳元で声をかけました。枕元には、私のCDも置いてあり、私も「山ちゃーん、これから一番弟子にしてあげるから起きて!」と、何度もいいながら、息子さんが持っていたギターを借りて耳元で大きな声で「おいで一緒に」を歌いました。病室でこんなに大きな声で歌って怒られないかと一瞬思いましたが、「構うものか」と必死でした。

ずっと付き添っておられる奥様から、7月15日、金曜日の夜、喫茶店でいつもの「歌う会」があり、ギターを弾いている最中、ギターを抱いたまま、眠るように倒れ、すぐ、救急車で病院に運び、2回手術をしたこと、山ちゃんの人柄か、たくさんの友人達がきて、身体をさすってくれたことなど、「悪口いうと起き上がるかも」などと笑ったり、泣いたりしてお話しました。

昨夜、電話をいただきました。昨日、7月21日、午後4時40分、亡くなられたそうです。

たった52歳で、4人のお子さんを残して若すぎる山ちゃんですが、一番大好きなギターを抱いて、眠るように、苦しみもなく、友人たちの前で意識をなくして去っていった山ちゃんに、今、泣きながらではありますが、拍手を送ります。この日本の行く末に心を砕き、精一杯生きて、子ども達や、友人や、周りの人を愛した山ちゃんに。そして、私へ下さったたくさんの優しさを、ありがとう!
一番弟子に! 師匠より。

横井久美子
2005年7月22日

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